碑の詩2

北関東B 群馬県B 「みなかみ紀行」関係2(中之条町〜片品村)
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群馬県中之条町大岩 牧水会館(旧大岩学校)

昭和50年(1975)10月20日除幕<71>

            大岩村にて
            大正十一年十月二十日
                         若山牧水
       人過ぐと生徒等はみな
       走せ寄りて垣よりぞ見
       る学校の庭の

       われもまたかかりき村
       の学校にこの子等のご
       と通る人見き

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歌人若山牧水は大正十一年十月二十日花敷温泉から暮坂峠を経て沢渡温泉への途中大岩村にてこの二首を残した いまここに同窓相はかりてこの碑を建てる
昭和五十年十月二十日 牧水歌碑建設委員会     会長 町田浩蔵   石匠 岡田嘉一
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▼第14歌集『山桜の歌』大正十一年ーーありとしも思はれぬ処に五戸十戸ほどの村ありてそれぞれに学校を設け子供たちに物教へたり。
     人過ぐと生徒等はみな走せ寄りて垣よりぞ見る学校の庭の (大岩村)
     われもまたかかりき村の学校にこの子等のごと通る人見き

 「みなかみ紀行」には大岩地区の記述がなく、『山桜の歌』2首があるばかりである。

 旧大岩学校は、明治12年(1879)村中の人々が協力して建て、「教育の殿堂として、また生活の中心的役割を果しながら、昭和二十九年に新校舎の完成に致るまで使われてきたもので」「明治初期、山間の地に建築当初の姿で現存する校舎は県下にもめずらしく極めて貴重なもの」として昭和63年(1988)中之条町の重要文化財に指定された。「庭の一角にある歌碑は歌人若山牧水が大正十一年十月二十日暮坂峠から沢渡へ行く途中、この校庭で遊ぶ子どもの様子を見て読んだものを刻んだものである。/校舎は新校舎へ移る際、保存を目的として、牧水の通行にあやかり『牧水会館』と命名され、以後大岩の人々の集会所として現在に至っている」と説明板にある。

群馬県中之条町 四万湯原

昭和51年(1976)10月21日除幕<72>

          四万湯原村にて
             大正十一年十月二十日
                               牧水
     小学校/けふ日曜に/ありにけり
      桜のもみぢ/ただに/散りゐて

▼第14歌集『山桜の歌』大正十一年ーーありとしも思はれぬ処に五戸十戸ほどの村ありてそれぞれに学校を設け子供たちに物教へたり。
    小学校けふ日曜にありにけり桜のもみぢただに散りゐて
                            
 (四万湯原村)
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歌人若山牧水は、花敷温泉より暮坂峠沢渡を経て四万温泉へ向う途中この歌を作った 同志相計りて旧第三分校敷地内に歌碑を建立する
         昭和五十一年十月二十一日         牧水歌碑建設委員会      会長  町田浩蔵   石匠  岡田嘉一
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四万湯原牧水歌碑は昭和五十一年十月二一日牧水歌碑建設委員会によって旧沢田小学校第三分校の敷地内に建設された このたび国道第三五三号の改良工事に伴ない現在地に移転した                  平成九年九月十七日       牧水歌碑保存会    会長  町田浩蔵
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◆沢渡温泉に正午近く着いた牧水たちは、温泉を浴び昼食をとった後、そこに留まるか伊香保まで足を伸ばそうか、あれこれ迷ったすえ四万温泉へと出発する。しかし「此処で順序として四万温泉の事を書かねばならぬ事を不快におもふ。いかにも不快な印象を其処の温泉宿から受けたからである。」と記す。「一泊者のせゐのみではなかつたのだよ。懐中を踏まれた」故の粗末な扱いであった。「近頃よく四万々々といふ様になつたものだから四万先生すつかり草津伊香保と肩を並べ得たつもりになつて鼻息が荒い傾向があるのだらうと思ふ、謂はゞ一種の成金気分だネ。」とまで言っている。

 この歌は、その四万温泉に着く前のことで、ここも「みなかみ紀行」には述べられていない。『山桜の歌』に1首のみ。しかも、10月20日は金曜日で、歌の内容と合致しない。大悟法氏は、『山桜の歌』編集に際して、後述の永井村での作と入れちがえたものであろうと言う。
          

群馬県みなかみ町猿ヶ京 三国路与謝野晶子紀行文学館

昭和54年(1979)12月1日除幕<85>
      みなかみ
                 大正十一年十月二十二日
                   牧水
   私は河の水上といふものに不思議な愛着を
  感ずる癖を持つてゐる
   一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る
   そして峠を越せば其處にまた一つの新しい
  水源があつて小さな瀬を作りながら流れ出し
  てゐる、といふ風な處に出會ふと、胸の苦しく
  なる様な歓びを覚えるのが常であつた
                        牧水長子旅人識之  
▼「みなかみ紀行」ーー10月22日ーー

◆21日、腹立つままに四万を発って中之条から渋川へ出る。そこで東京へ戻る門林と別れ、ひとり沼田に宿泊。宿に訪ねてきた牛口善衛という創作社社友と、翌日法師温泉に向かう。途中「『猿ヶ京村』といふ不思議な名の部落」にやはり社友の松井太三郎を訪ね、彼も誘って一緒に法師温泉へ赴いている。
 「大正七年の秋に、ひとつ利根川のみなかみを尋ねて見ようとこの利根川の峡谷に入り込んで来たことがあつた。」と「みなかみへ」の旅を振り返り、「片品川の奥に分け入らうと云ふのは実は今度の旅の眼目であつた。そして今日これから行かうとしてゐるのは、沼田から二里ほど上、月夜野橋といふ橋の近くで利根川に落ちて来てゐる赤谷川の源流の方に入つて行つて見度いためであつた。その殆んどつめになつた処に法師温泉はある筈である。」と書く。まさに「河の水上への愛着」が、ここに端的に語られている。

 猿ヶ京は古く笹の湯と湯島温泉という2つの温泉場であったが、昭和33年(1958)ダム工事で現在地に移転、猿ヶ京温泉と称するようになったとか。牧水は法師温泉からの帰り、「猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で昼食をとつた。相迫つた断崖の片側の中腹に在る一軒家で、その二階から斜め真上に相生橋が仰がれた。」笹の湯温泉の一軒宿は相生館。

 文学碑は、猿ヶ京ホテルの女将が館長である「三国路与謝野晶子紀行文学館 椿山房」(平成13年「三国路紀行文学館」から晶子専門文学館として改称)前に、向かって左「若山牧水文学碑」右側に「みなかみ紀行」の一節を刻んだ石碑という形で建てられている。近くには「歌碑の道」があり、そこにも「みなかみ紀行」の一節を刻んだ紀行文碑があるという。


                          与謝野寛・晶子歌碑    牧水文学碑は文学館「椿山房」入口前
  霜ふかし路は空にも入りたるや一音の雷子の国に鳴る  寛   与謝野夫妻は昭和6年9月三国峠に遊び、晶子は寛亡き後の14年11月
  こすもすと菊ダリヤなど少し咲き里人は云ふ猿ヶ京城   晶子   猿ヶ京温泉・法師温泉を再訪。晶子没後50周年を記念し建立したという。 

群馬県みなかみ町永井 永井宿郷土資料館

昭和54年(1979)3月29日除幕<82>
        「山村所々」のうち
                永井村

                       若山牧水
   山かげは/日暮はやきに/;学校の
   まだ終らぬか/本読む声す

            大正十一年十月二十二日
                             歌集「山桜の歌」より

▼第14歌集『山桜の歌』大正十一年ーーありとしも思はれぬ処に五戸十戸ほどの村ありてそれぞれに学校を設け子供たちに物教へたり。
    山かげは日暮はやきに学校のまだ終らぬか本読む声す

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歌人牧水は「みなかみ紀行」の旅の途中、沼田から法師温泉に向うとき、ここでこの歌を作った。永井分校閉校に際しこの碑を建てて記念する
                    昭和五十四年三月二十九日                     新治村養育委員会       牧水歌碑建設委員会
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 永井に関しても『山桜の歌』の1首だけで、他の記述はない。

 猿ヶ京の松井の家を出たのは「午後三時をすぎてゐた。法師まではなほ三里、よほどこれから急がねばならぬ。」「小走りに走つて急いだのであつたが、終に全く暮れてしまつ」てから法師温泉に到着。翌朝「うす闇の残つてゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿つてゐるのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出で」同じ道を戻り、「猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で昼食を」とっているから、日暮れ時に通るとすれば22日であるが、その日は日曜日であったという。つまり「小学校けふ日曜にありにけり」という「四万での作」とされるものが、実際には永井での作であるらしい。

群馬県沼田市白沢 栗生トンネル

昭和61(1986)10月20日
                          酔牧
         なほ書きつける一首

     相別れ/われは東に/君は西に
     わかれてのちも/飲まむとぞ/おもふ

▼老神温泉を出発する際に書き付けられた即興の歌で、歌集等には収録されていない。

◆23日早朝法師温泉を発って湯宿温泉に到り、そこで二人の青年と別れて1泊。24日は再び沼田に出て土地の文芸愛好家達と歌会を開く。22日夜に法師温泉まで牧水を訪ね、そこで一日ゆっくりしていた生方吉次という青年(法師には後に生方たつゑの夫となる生方誠も同行)もまたかけつけ、翌日彼とともに老神温泉へ向かう。
 沼田から老神温泉へ「路はずつと片品川の岸に沿うた。これは実は旧道であるのださうだが、故らに私はこれを撰んだのであつた。」という道をたどっている。現在の国道120号より南側にあたるか。一方、栗生トンネルは林道赤倉栗生線にあり、国道より北側で、牧水達が通った道とはおそらく違っていると思われる。なぜここに歌碑があるのかは不明。

群馬県沼田市利根町 老神温泉

昭和61年(1986)2月

        かみつけの/とねの郡の老神の

        時雨ふる朝を/別れゆくなり

                       牧水詠 旅人書  

▼10月26日朝、老神温泉での別れにあたって番傘に書き付けられた歌。

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         吉次君に寄す
 かみつけの/とねの郡の/老神の/時雨ふる/朝を別れ/ゆくなり
             大正十一年十月廿六日/旅人牧水

                      酔牧
     なほ書きつげる一首
 相別れ/われは東に/君は西に/わかれてのちも/飲まむとぞ/おもふ
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                                   若山牧水歌碑
旅を愛し酒を愛した放浪の歌人若山牧水は大正十一年十月二十五日ここ利根の景勝 片品渓谷の秋色を訪れて老神温泉に一泊し更に吹割の滝を見物 丸沼菅沼の原始林を歩いて金精峠を越え栃木県に向ったことは「みなかみ紀行」でよく知られております その時同行して老神温泉で別れた生方吉次との感慨を歌った一首である
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◆26日「起きて見ると、ひどい日和になつてゐた。『困りましたネ、これでは立てませんネ。』渦を巻いて狂つている雨風や、ツイ渓向うの山腹に生れつ消えつして走つてゐる霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滞在ときめて漸くいゝ気持に酔ひかけて来ると、急に雨戸の隙が明るくなつた。『オヤオヤ、晴れますよ。』さう言ふとKー君は飛び出して番傘を買つて来た。私もそれに頼んで大きな油紙を買つた。そして尻から下を丸出しに、尻から上、首までをば僅かに両手の出る様にして、くるくると油紙と紐とで包んで」宿を立ち出で、「雨風のまだ全くをさまらぬ路ばたに立つてKー君と別れた。」(「みなかみ紀行)

 その番傘に即興的に書き付けられたのが上の2首で、「番傘の歌碑」が、牧水生誕百年を記念して生方の菩提寺・沼田の舒林寺に建立された。
                                              酔牧
         なほ書きつける一首

     相別れ/われは東に/君は西に
     わかれてのちも/飲まむとぞ/おもふ

 上の歌碑の傍らにある。昭和61年6月建立か?

 現在「牧水ゆかりの宿」をうたう「白壁の宿 牧水苑」は、「みなかみ紀行」に「宿に入つて湯を訊くと、少し離れてゐてお気の毒ですが、と言ひながら、背の高い老爺が提灯持つて先に立つた。どの宿にも内湯は無いと聞いてゐたので、何の気もなくその後に従つて戸外へ出たが、これはまた花敷温泉とも異つたたいへんな処へ湯が湧いてゐるのであつた。手放しでは降りることも出来ぬ嶮しい崖の岩坂路を、幾度か折れ曲つて辛うじて川原へ出た。そしてまた石の荒い川原を辿る。その中州の様になつた川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いてゐるのだ。」とある「背の高い老爺」のひ孫が女将をしているとか。

群馬県沼田市材木町 舒林寺

昭和61年(1986)10月20日<133>

            吉次君に寄す
      かみつけの/とねの郡の/老神の
      時雨ふる/朝を別れ/ゆくなり
            大正十一年十月廿六日  旅人牧水

       酔牧
            なほ書きつける一首
      相別れ/われは東に/君は西に
      わかれてのちも/飲まむとぞ/おもふ

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若山牧水は、大正十一年「みなかみ紀行」の旅に奥利根を訪れた。友人との別れに際し、番傘に酔筆をはしらせた。その複製を歌碑とする。
   牧水会發起人代表 生方誠の遺志により当山に建立す
        牧水生誕百年記念   昭和六十一年十月二十日   番傘の歌碑建立の会識
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老神温泉での別れにあたって、歌を即興的に書き付けた番傘は、生方の菩提寺である沼田の舒林寺に寄贈されたというが、所在不明。そのレプリカが沼津の牧水記念館に展示されている。歌碑はその番傘と徳利をかたどったユニークなもの。

群馬県片品村 白根魚苑

昭和45年(1970)6月<57>

    時知らず/此処に生ひたち/枝張れる
     老木を見れば/なつかしきかも

                大正十一年廿七日
                          此処に立ちて

▼第14歌集『山桜の歌』大正十一年ーー上野の国より下野の国へ越えむとて片品川の水源林を過ぐ。ーー(10首)
   下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも
   時知らず此処に生ひ立ち鋼なす老木をみればなつかしきかも
   聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色にみゆ

 26日生方と別れた牧水は、丸沼の鱒養殖の番小屋に泊めてもらうため東小川村の千明家を訪れ、その日は白根温泉に泊まる。そして翌日、丸沼へと向かうのであるが、歌はその途中でのもの。白根魚苑は千明家が経営し、ニジマスなど100万尾の魚を養殖等している「奥日光のファミリーランド」というのが謳い文句であるようだが、そこの樹齢800年をこえるタチヤナギの下に歌碑がある。文字は牧水の種々の筆蹟から集めたという。
◆28日、番小屋の老人と金精峠を越えて湯元温泉へと向かう途中、「端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと湧き出てゐる水を見た。老番人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だといふ。それを聞くと私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。/ばしゃばしゃと私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる様に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ、頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飲んだ。」その後、金精峠の頂上で番人と別れ湯元へ下るところで「みなかみ紀行」は閉じられている。
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