碑の詩2

宮崎県  延岡市2・日向市3・串間市


                                                  ※以下、いずれも昭和52年10月時点の写真である

宮崎県延岡市 城山公園

昭和10年(1935)3月21日除幕<3>

     なつかしき/城山の鐘/鳴りいでぬ

     をさなかりし日/聞きし/ごとくに
                          牧水

▼『若山牧水全歌集』ー補遺ー昭和二年
   なつかしき城山の鐘鳴り出でぬ幼かりし日ききし如くに  (延岡にて)

 大正15年(1927)5月、詩歌綜合雑誌『詩歌時代』を創刊し好評を得るも資金難のため10月号限りで廃刊、また14年に建てた新居の借金などもあり、この頃は揮毫行脚を続けていたが、昭和2年(1928)には朝鮮にまで足を伸ばすこととなった。
 5月4日沼津を出発し、大阪・広島・延岡などを回った後、16日釜山上陸。以後朝鮮各地を巡って、7月12日「脚は利かず、ものをいふのはおつくうなりの状態」(7月11日付手紙)で下関へ帰り着いた後、大分での歌会を済ませ延岡入りした時の作。17日夜、母の異母弟宅である台雲寺に落ち着き、そこで24日に詠んだ、延岡での最後の歌だという。

 牧水は坪谷尋常小学校を卒業した明治29年(1896)5月から延岡高等小学校に入り、32年(1899)には延岡中学校一回生として入学、37年(1904)卒業して上京するまでの8年間を延岡に過ごしている。「城山の鐘」は、明治11年(1878)に延岡城址(城山)の天守台跡に建てられた鐘楼で今も毎日時を告げている鐘。6月10日の時の記念日に「城山の鐘まつり」が行われている。

 牧水の7周忌にあたる昭和9年(1934)歌碑建立の話が起こり、翌年3月17日完成。建立の主唱者であった門人の谷次郎・越智渓水の歌碑がその後牧水歌碑の両脇に建てられた。歌碑が建てられた昭和10年から毎年、3月の彼岸の頃に「若山牧水歌碑祭」が行われ、朗詠と酒が捧げられているという。

宮崎県延岡市 延岡高校

昭和32年(1957)9月17日除幕<20>
                                                      牧水

     うす紅に/葉はいちはやく/萌えいでゝ

        咲かむとすなり/山ざくら花

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旧県立延岡中学校第一回卒業生若山牧水先生三十年忌に当たり、これを建てる   昭和三十二年九月十七日
      延岡恒富高校  同同窓会  同PTA  文化関係有志
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▼第14歌集『山桜の歌』大正十一年ーー山ざくら 三月末より四月はじめにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ。附近の渓より山に山桜甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此処にまとめつ。ーー(23首)
     うす紅に葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
 大正11年(1922)3月28日湯ヶ島温泉に出かけ、湯本館に3週間ほど滞在した時の作。(湯ヶ島西平神社の項参照)

 明治32年(1899)、延岡に初めて県立中学校が開校し、高等小学校3年を修了した牧水は4年卒業生らと一緒に入学試験を受け、入学者100名中4番の成績で入学した。2年の頃から盛んに文学書に親しむようになり、34年(1901)から出されるようになった校友会雑誌に発表したり、友人に教えられて『中学文壇』などの雑誌に投書を始める。35年(1902)には友人らと回覧の文芸誌『曙』、36年(1903)短歌誌『野虹』を発行、卒業まで精力的に活動している。母の名「マキ」と渓や雨の「水」とを合した「牧水」の号は36年秋に初出が認められるが、翌年1月から本格的に使用するようになった。
 その37年(1904)3月中学校を卒業するのであるが、2代にわたる医者の家の唯一の男子として家業を継ぐべき立場にあり、しかし文学を捨てきれず、学資の問題もあって懊悩の日々を送る。結局は義兄の援助を得て早稲田への進学が認められ、故郷宮崎をあとにしたのだった。

 昭和23年(1948)旧制延岡中学校が県立延岡恒富高校となり、34年(1959)4月延岡高校と改称。胸像は昭和38年3月に建てられたという。 

宮崎県日向市東郷町坪谷 牧水生家裏(和田の越)

昭和32年(1957)9月17日除幕<20>

     ふるさとの/尾鈴のやまのかなしさよ
 
     秋もかすみの/たなびきてをり  牧水
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明治四十五年牧水は父の病気重態のため郷里に留って就職し家計を立てるよう懇請され進退に迷い苦悩懊悩の日日を送った。この岩の上に座し瞑想や読書に耽ったと云う。牧水二八才の秋である。
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▼第6歌集『みなかみ』ーー故郷ーー(134首) 巻頭の歌
   ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り

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                             若山牧水
 「おもいやるかのうす青き峽のおくにわれのうまれし朝のさびしさ」
 若山牧水は本名繁 明治十八年八月二十四日ここに生れ、延岡中学校時代から歌に志し早稲田大学英文科卒業後歌道に専心し清貧の一生を送り多くの名歌を残し昭和三年九月十七日四十三才で沼津千本松原の蔭の家に没した
                                 牧水生家
 生家は牧水の祖父健海が弘化二年(一八四五)の頃に建築したもので牧水少年時代の姿をそのままに伝えている。健海は埼玉県所沢在の農家に生れ若くして蘭学医術を学び天保七年(一八三六)ここに移り住んで医を業とした。嘉永二年蘭人モーニッケが我が国に種痘を伝えるやいち早くそれを学んで日向各地に実施した先覚者である。/生家は昭和四十一年九月史蹟として県の指定をうけた。
                                牧水記念館
 牧水記念館は昭和四十二年文化の日に開館した。牧水の長男旅人氏の設計で牧水に関する資料数百点を展示し我が国文学の振興に資している。
                                牧水歌碑
 歌碑は記念館のすぐ後の小丘にある。/昭和二十二年十一月十七日に除幕式が行われた。「ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきてをり」が牧水の筆蹟で自然石に刻まれている。歌は歌集「みなかみ」所載のもので大正元年秋の作。当時牧水は父立蔵病気のために帰省中であったが、近親者たちから故郷に留まつて就職するよう強く求められ進退に迷つて苦悶懊悩の日々を送つた。時折この歌碑の石の上に登り瞑想や読書に耽つていたという。歌はそういう環境から生れたもので尾鈴の山をかなしむ心はすなわち作者自身をかなしみまたいとしむ心である。 
                                                                       牧水顕彰会
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 明治45年(1912)5月、その澄んだ瞳と失敗した恋愛のことなどを率直に語る牧水を信じ、その愛を受け入れた喜志子は、世間並みの結婚をしたくないという牧水の希望に添う形で、家人に黙って家を出、以前住み荷物を置いたままにしていた新宿の森本酒店の2階に落ち着く。牧水の結婚生活はそこで始まる。郷里の親には知らせぬまま。
 しかし、7月20日父重態の知らせを受ける。旅費をようやく工面して帰郷したのが25日。父の病気はひとまず落ち着いていたが、若山家唯一の男子として地元への就職を求める家族に抗することができず、しばらく上京をあきらめる。部屋に籠もったり、家の裏手和田の越と言われる所に数年前の暴風雨で転げ落ちてきた巨石に上って尾鈴連峰を眺めながらもの思いに耽る日々が続く。10月末には実家に戻っていた喜志子から妊娠の知らせが届くが、やはり家を出ることはできない。そんな11月14日、父が突然脳溢血で亡くなる。益々進退に迷い焦燥・懊悩の日々を送り、歌も定型を大きくはみだした破調の歌となっていく。結局母から上京の許しをもらって出郷したのは大正2年(1913)5月14日であった。途中瀬戸内の岩城島に門下を訪ねそこで『みなかみ』の歌稿をまとめるなどして、東京に着いたのは6月18日であった。この間4月24日には長男旅人が信州で生まれている。

 「本書を亡き父に捧ぐ」とした歌集『みなかみ』について、自ら「初めの一章などは従来の我が詠みぶりと大差がないが、次ぎの『黒薔薇』以降に及ぶと、よほど其処に変化が起つて来てゐる。」(本書の初めに)と述べているが、伊藤一彦氏は「自己との真摯なる苦闘が破調や口語律の導入という新たな文体の創造を行った点において、その文体がしかも昭和の新風の先駆であった点において、文学史上に燦然と輝いている。」(『あくがれゆく牧水』)と評価している。掲出歌は「従来の詠みぶりと大差がない」第1章「故郷」に収められている。(以後「黒薔薇」「父の死後」「海及び船室」「酔樵歌」の各章が続く。)
    ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り
     二階の時計したの時計がたがへゆく針の歩みを合はせむと父
     痛き玉掌にもてるごとしふるさとの秋の夕日の山をあふげば
     なにをかもよろこびとせむふるさとに埋るる身は梨腐るごとし
     一ところ山に夕日のさせるごとく東京の市街をおもひてぞ居る
     われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの歯もなき
     飲むなと叱り叱りながら母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ
     姉はみな母に似たりきわれひとり父に似たるもなにかいたまし
     母をおもへばわが家は玉のごとく冷たし父をおもへば山のごとく温かし
     山河みな古き陶器のごとくなるこのふるさとの冬を愛せむ

 歌碑は和田の越の、牧水が親しんだ巨石に歌を刻んだもので、除幕当日にはアメリカ進駐軍からの出席者もあったという。
 昭和42年(1967)には生家隣りに長男旅人氏の設計した「牧水記念館」が開館したが、平成元年(1988)「リフレッシュふるさと推進モデル事業」として坪谷川を挟んだ牧水生家向かい側の丘陵地帯に「県立牧水公園」が建設され、平成17年(2005)4月1日には「若山牧水記念文学館」がオープンしたという。
  ーー明治十八年八月廿四日、その日は陰暦では恰度お盆の十六日に当つてゐた相だ。その朝とりわけて気分のよかつた母を二人の姉は(略)東の縁側へ連れ出して坐らせてゐた。漸う日の光が峰から射して来る頃だつた相だから、余程早朝であつたのだらう。(略)此処でお前はことんと音をさせて生れたのだよ、と其後もう余程生長してから度々姉どもは私をその縁側へ連れて来てはからかつた。田舎の家の事で、幅の広い、頑丈な板縁で、真東に向いてゐる。ーー(「おもひでの記」ー庭梅)  

宮崎県日向市細島 御鉾ヶ浦

昭和36年(1961)7月2日除幕<31>

     ふるさとの/お秀が墓に/草枯れむ

     海に向へる/彼の岡の上に    牧水

▼第3歌集『別離』下巻
    ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへる彼の岡の上に

牧水はかつて秀子と日高家の墓地に行き、そこから港を見た記憶があったので、こんな歌ができたという。

 お秀こと日高秀子(戸籍名ヒデ)は、細島(鉄道が開通するまでは神戸と結ぶ日向の玄関口)で廻船問屋を営む紀国屋の次女として生まれ、京都同志社女学校から日本女子大英文科に進んだ才媛。牧水の高等小学校からの友人日高園助の幼馴染みということで、牧水とも面識があった。
 明治39年(1906)夏、上京して2度目の帰省で神戸から細島に着いた牧水は、そこで日高園助の恋の苦衷を聞き、単身神戸まで引き返し談判するも効なく、再び細島まで戻ってきた。その神戸の家には小枝子が遊びにきており、後に恋の深みへとはまっていくのであるが、この39年7月には、やはり鹿児島から帰省した親友鈴木財蔵と出会い、秀子と3人海岸を歩いている。7月10日付鈴木宛の葉書には、
ーー磯の日、あゝ思ひ出おほき日ならずや、こゝろかの日を想ふごとに何処ともなくほのかに松の嵐波のひゞきの通ふを覚ゆ、あゝ思ひ出おほき日ならずや。(略)僅か小半日なりしかど、かの磯の日の恋しく候。雨を見、谷をきいてこゝろ更にあこがれ申し候、
     海の声ほのかにきこゆ磯の日のありしをおもふそのこひしさに
     物がたり磯の夏樹の花かげに涼しかりにし日をおもふかな ーー とある。

 この「磯の日」以来、二人は同じ東京の大学生ということで行き来するようになる。しかし恋愛関係に発展することはなく、互いにそれぞれの恋に傾斜していくのであるが、秀子はその恋に破れ40年(1907)10月東京を去り、帰郷の途中、大阪の緒方という産婦人科病院で客死した。享年22。11月18日付鈴木宛の書簡に牧水は次のように書く。
ーー君、秀さんは死んだよ、細島の秀さんはもうこの世には居なくなつたよ、(略)君、僕はいま君に彼女の死期の無惨なりしことを語るを得ぬ、彼女は普通の死ではなかつたのだ、自殺ではない、勿論他殺でもない、が、普通の死ではない、僕は彼女が今はのうは言を想ふに忍びぬ、(略)君、お願ひすることがある、来年の夏は両人して彼女の墓に詣でよう、彼女の墓地は米山の中腹にあることを知つてゐる、その山の中腹で麓に海の水を眺めて、顧みて一基の石に対した時、両人の胸には何が湧かう、如何の思ひが湧くであらう。ーー

 『別離』上巻には、次の4首も収められている。
     さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや    (二首秀穣との別れに)
     別れてしそのたまゆらよ虚なる双のわが眼にうつる秋の日
     いま瞑ぢむ寂しき瞳明らかに君は何をかうつしたりけむ    (途中大阪にかれは逝きぬ)
     短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ

 前2首は40年の『詩人』11月号に「女に別れて」として発表され、『海の声』にも採られているが、2首目は次のようになっている。
     別れてしそのたまゆらよ虚なる双のひとみに秋の日を見る

 歌碑は、細島港を一望できる高台の老松の根元に建立されたというが、昭和52年10月時点では、一面の草の下に隠れていた。 現在の御鉾ヶ浦公園については、次のHPに詳しい。 http://nanjaroka.jp/meisyo/bokusuikahi-mi/index.html

宮崎県日向市 日向市駅西口交流広場

昭和51年(1976)11月2日除幕<73>

      幾山河/こえさり行かば/寂しさの

      はてなむ國ぞ/けふも旅ゆく   牧水

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旅の歌人として親しまれる若山牧水は、明治十八年八月、現在の東郷町坪谷に生れた。初期の代表作として知られるこの歌は、まだ二十一歳、早稲田大学在学中の牧水が暑中休暇に帰省する途中の作であり、ここはそのふるさとの駅。
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▼第1歌集『海の声』第3歌集『別離』ーー旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとてーー中国を巡りてーー10首9首
   幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 この歌碑は、駅構内の陸橋が取り壊され一番ホームにできた空き地の有効活用ということで当時の国鉄の関係者が話し合い建設されたものという。それ故、旅の代表作ということで「幾山河」が選ばれ、日豊線の車窓から直に見ることができる極めて珍しい歌碑であった。しかし、日向市駅の架事業に伴い駅西口に交流広場が設けられ、平成21年(2009)4月29日に広場オープンとともにそこに移設されたという。設計は長男旅人氏、撰文大悟法氏。
 11月2日の除幕については、翌3日に大分の耶馬溪で「安芸の国越えて長門にまたこえて豊の国ゆきほととぎす聴く」「ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき」の2首が刻まれた歌碑の除幕式が決定していたため、参列者の便宜を図ったとのことである。

宮崎県串間市 都井岬

昭和22年(1947)9月17日除幕<9>

       日向の國都井の岬乃青潮に

       入りゆく端?ひとり海見る

                    牧水詠 喜志子書

▼第1歌集『海の声』第3歌集『別離』ーー旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとてーー二十三首南日向を巡りてーー(『海の声』では26首)

  椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る  (三首都井岬にて)
  あはれあれかすかに声す拾ひつる椰子のうつろの流れ実吹けば
  日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海見る

 『海の声』では、《日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海聴く》となっている。

 明治40年(1907)の帰省(「幾山河」の旅)の際、無医村の都井村に滞在して診療に従事していた父立蔵に会う目的で南日向を旅した時の作。
7月14日夜自宅に帰り着き、1週間ほどして青島・鵜戸・油津・都井などに遊び、8月10日には延岡に出て数日滞在、帰宅後28日に細島から船で神戸に渡り、大阪・和歌山・奈良・法隆寺などに遊んで9月10日頃東京に戻るという、まさに「旅人牧水」誕生の3ヶ月であった。「南日向を巡りて」には次のような歌もある。
     白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を
     檳榔樹の古樹を想へその葉蔭海見て石に似る男をも   (日向の青島より人へ)
     船はてて上れる国は満天の星くづのなかに山匂ひ立つ   (日向の油津にて)

 この歌碑は大戦後初めて建立されたもので、生家裏の歌碑建立の刺激になったものだという。