碑の詩2

北関東 群馬県@ 安中市2・みなかみ町4・高山村1

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群馬県安中市 磯部公園

昭和57年(1982)4月除幕<93>

     湯の町の/葉ざくら暗き/まがり坂

       曲り下れば/渓川の見ゆ

                        若山牧水
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             若山牧水(一八八五〜一九二八)
 明治十八年、宮崎県東郷村に生まれる。明治・大正の歌人。三十八年、尾上柴舟らと車前草社を起こし、「創作」を編集創刊。その歌風は、感傷的・叙情性の濃いものであったが、後、しだいに自然歌人としての自己を確立していく。「海の声」「秋風の歌」「山桜の歌」等、数多くの歌集がある。
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▼第11歌集『さびしき樹木』ーー妙義山ーーその日妙義山に志したれど心変りて磯部に泊るーー
     気まぐれの途中下車して温泉町停車場出づれば葉ざくら暗し
     眼に立たぬ宿屋さがして温泉町さまよひ行けば河鹿なくなり
     湯の町の葉ざくら暗きまがり坂曲り下れば渓川の見ゆ

 大正6年(1917)6月6日、牧水は妙義山に向かう。『さびしき樹木』ーー妙義山ーーの詞書を列記すれば、
  ・その日妙義山に志したれど心変りて磯部に泊る(3首)   
   ・町端れの宿屋に入れば心の疲れ俄に身に浸む思ひす(2首)
  ・河鹿しきりになく(1首)                      ・旅なれぬ身にもあらねど(1首)
  ・その翌朝(1首)                           ・朝夙く出で立たむとおもひしが(1首)
  ・翌々日磯部を出で高原の路を歩きて妙義山に向ふ(3首)  ・このあたりの村すべて蚕を飼へるにや(2首)
  ・道漸く山に懸れば霧は雨とかはれり(2首)           ・妙義町なる宿屋に雲と雨とを眺め暮すこと三日間(3首)
  ・僅かの時間を見てその峰に登りぬ(4首)            ・山を下らむといふ日に(1首)

 磯部温泉は地図記号の温泉マーク発祥の地であり、巌谷小波がこの地の舌切り雀伝説をおとぎ話として書き残したことからその発祥地ともされる。その舌切り雀神社もある磯部公園には、地元の大手拓次詩碑を中心に以前から北原白秋・萩原朔太郎らの文学碑十数基があったが、昭和57年に安中市観光協会の手で牧水はじめ5つの文学碑が新たに建立されたという。

群馬県安中市 磯部温泉 はやし屋

昭和36年(1961)4月

     芹生ふる/さわのながれの/ほそまりて

    かすかに落つる/音のよろしさ

                         牧水

▼第13歌集『くろ土』大正八年ーー磯部鉱泉にてーー
   とある樹の根にしたたれる苔清水見てをりていまは飽かずもあるかな
   川ばたの並木の桜つらなめてけふ散りみだる麦畑のかたに
   樫の木の茂りを深み古き葉のきのふもけふも散りて尽きなく
   霰なす樫の古葉にうちまじり散りいそぐかも庭のさくらは
                                            芹生ふる沢のながれのほそまりてかすかに落つる音のよろしさ

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                                                            若山牧水歌碑について
上州の山河をこよなく愛した若き天才歌人若山牧水は四十三才の短い生涯のうち前後七回にわたって上州の地を訪れている。大正六年始めて天下の峻険妙義山の登山を思いたちやっとその目的を達する事の出来たその時の歌を牧水は次のように詠んでいる。「妙義道たまたま逢えるいちにんのおんなは青桑を背負い急げり」
次で大正八年四月十一日より当林屋旅館に十二日間滞在している 牧水はこの間碓氷川畔のせせらぎの旅情を愛しつれづれになるままに次の歌を当館に残している。「芹生ふる沢のながれの細まりてかすかに落つる音のよろしさ」
そして上州最後の旅はこれが最も長く大正十一年信州から金精峠を越えての旅であった。これを牧水コースとして文学愛好者等に有名であるがこの碓氷川畔の (不明) 磯部温泉での牧水の消息はなぜか世の人にあまり知られていない。
上州の自然のなかにひょうひょうとさすらう放浪の歌人牧水はその多感な少年時代より自然を愛し旅を愛し人を恋し素朴で温かい人情に触れて酒を愛し淋しさを友として郷愁とその傷心の身を旅の土湯にいやしたのであろう
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 牧水が上州を訪れたのは、@明治41年(1908)8月、A大正6年(1917)6月、B7年11月(「みなかみへ」の旅)、C8年4月、D8年5月、E9年5月、F11年10月(「みなかみ紀行」の旅)の7回。そのうち@は大学卒業直後、就職先が決まらぬまま友人の誘いで軽井沢に赴いた牧水が、東京へ戻る途中妙義山に登ったというもの。Dは赤城山と榛名山に登るつもりで出かけたが、風邪気味のため榛名山の山上湖畔に1泊して帰京。Eは今話題の八ツ場ダムの湖底に沈むかどうかで揺れている川原湯温泉に10日ほど滞在した後、草津・渋・信州と回った旅。

 林屋旅館(現 はやし屋)には、AとCで都合14泊している。
 第11歌集『さびしき樹木』には「妙義山ーー町端れの宿屋に入れば心の疲れ俄かに身に浸む思ひすーー
     ひとり来てひそかに泊る湯の宿の縁に出づれば溪川の見ゆ
     溪川の見ゆるうれしみひろびろと部屋あけ放ち居ればうら寒し

 この歌碑の建立に関して『牧水歌碑めぐり』には、「旅館主も知らず、いろいろきいてみても、まったく何の手がかりもない。とにかく古いことはかなり古く、どうにかすると牧水歌碑の中でも最初期のものの一つであるかも知れない。」「仮に戦後最初に建ったものとして第八号の牧水歌碑として数えておく」とあるが、日向市東郷町の若山牧水記念文学館のホームページには昭和36年建立とあるのでそれに従った。

群馬県みなかみ町湯原 旅館藤屋

昭和57年(1982)11月1日除幕
        大渦の うづま
       きあがり 音もな
       し うねりなだれ
       て 岩を掩へども      牧水

 大正7年(1918)、日光から金精峠を越え老神・沼田を経て湯桧曽までを辿った画家三上知治の旅行スケッチ「利根の奥へ」に触発され、11月12日上野駅を発ち湯原(現 水上温泉)・湯桧曽・谷川温泉・吾妻渓谷等を巡る。さらには軽井沢から松本付近を回って29日夜帰宅した。『くろ土』に「みなかみへ」と題して159首の歌を収めた旅であった。

▼第13歌集『くろ土』大正七年ーーみなかみへーー  (詞書および歌数は以下の通り)
・十一月半ば上野国利根川の水上を見むとて清水越の麓湯桧曽までゆく、其処よりは雪深くして行き難かりき、路すがらに歌へる歌。(7首)
・小日向村附近に到り利根は漸く渓谷の姿をなす、対岸に湯原温泉あり、滞在三日。(16首)
     凩の吹きしくなべにわが宿のそぎへの山の雪とび来たる
     山かげの温泉の小屋の破れたれば落葉散り浮くそのぬるき湯に
     夜をこめてこがらし荒び岩かげの温泉の湯槽今朝ぬるみたり
     大渦のうづまきあがり音もなしうねりなだれて岩を掩へども
・湯原より利根の渓に沿うて湯桧曽に溯り更に転じて谷川温泉に到る。(58首)
・谷川温泉は戸数十あまり、とある渓のゆきどまりに当る、浴客とても無ければその湯にて菜を洗へり。(29首)
・利根の流域より名も知らぬ山を越えて吾妻川の峡谷に出づ、此処には雪なくてなほ黄葉残りたり。(11首)
・名久田川といふに沿ひて下れば遥けきかたに一きはすぐれて高き山見ゆ、里の娘にとへば浅間山なりといふ。(6首)
・吾妻川の上流にあたり渓のながめ甚だすぐれたる所あり、世に関東耶馬溪とよぶ。(19首)
・更に吾妻の渓を溯り、左折して長き山路を登れば六里が原に出づ、広茫たる淺間火山の裾野なり。(13首)

 この旅は、「利根の奥へ」(出発までのいきさつ〜湯原)、「みなかみへ」(〜湯桧曽)、「利根より吾妻へ」(〜権現峠附近?)、「吾妻川」(〜中之条)、「吾妻の渓より六里が原へ」という6部の紀行文にもまとめられ、詳細を知ることができる。

 11月12日上野駅を発ち伊香保に投宿。翌13日、沼田で昼食をとった後「恐るべき悪路」を馬車に揺られながら小日向村まで行き、「馬車から降りて筋張つた脚を引きながらその小日向の筋向ひに音のみ激しい渓間の橋を渡れば湯原といふ温泉場がある。其処の藤屋といふへ寄る。」(「利根の奥へ」)13日は快晴であったが、14日は終日時雨、15日も降ったり止んだりで「けふもう一日此処に休む事にする。そして終日湯に浸つた。」(「みなかみへ」) 

群馬県みなかみ町谷川 富士浅間神社

昭和43年(1968)5月28日建立<51>
      わかゆくは/山の窪なるひとつ路

     冬日光りて/氷りたる路         牧水

▼第13歌集『くろ土』大正七年ーーみなかみへーー湯原より利根の渓に沿うて湯桧曽に溯り更に転じて谷川温泉に到る。ーー
     わが行くは山の窪なるひとつ路冬日ひかりて氷りたる路
     行き行くと冬日の原にたちとまり耳をすませば日の光きこゆ
     日輪はわが行くかたの冬山の山あひにかかり光をぞ投ぐ
     澄みとほる冬の日ざしの光あまねくわれのこころも光れとぞ射す

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                                                                 建碑について
大正七年十一月歌人若山牧水先生が利根吾妻を行脚された際、当温泉に来遊されて二泊さる、その節詠まれた数首の歌の中 偶々一枚の短冊に染筆されてあったものを そのまゝ拡大してこの歌碑が建てられたのである、湯原から湯桧曽え そして谷川えの道すがら詠まれた歌である 五十年の歳月の流れは上越線の複線化、東京よりの自動車道全線舗装完成、旅館ホテルの近代化等により今や観光水上として大きく変貌している、さて次に来る五十年はどんな姿になるであろうか                   昭和四十三年五月        水上町観光課   谷川温泉観光協会
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 雨や凄まじい凩で1泊の予定を延ばした牧水は、16日「風はまだあるが、雨は止んだ。覚束ない空ながら思ひ切つて出かける。けふはこれから更に上流、この街道の行きとまりになつてゐる湯桧曽といふのまで行く予定であるのだ。(略)一時間も歩いた頃、どうしたものか、空が急に晴れて来た。(略)驚きながらも私の心は躍り立つた。(略)何といふ事なくたゞ涙ぐましく、時には泣く様な声で独り言を言ひながら歩いた。殊に段々細く嶮しくなつて行く渓の流は次第に私の心を清浄にし、孤独にし、寂しいものにし」(「みなかみへ」)ながら、湯桧曽へと向かうのであった。 

群馬県みなかみ町谷川 ペンションくるみ村入口

建立日不明
                              若山牧水

     夕かげる/岩山肌に/さむざむと

     ひびける滝は/三つに折れて懸る

▼第13歌集『くろ土』大正七年ーーみなかみへーー湯原より利根の渓に沿うて湯桧曽に溯り更に転じて谷川温泉に到る。ーー
   岩山の傾斜の道に落葉つみかぼそきかなや杣人がかよふ道
   わが憩ふ岩に日のさし渓むかひくらき岩山に滝落ちつる見ゆ
   ゆふかげる岩山肌にさむざむとひびける滝は三つに折れて懸る
   冬日いま暮れむとしつつ岩かげの滝むらさきに澄みてかかれり

 湯桧曽には2、3日泊まるつもりで無理にも宿を頼むのだが、「落ち着いて見ると静かどころかあまりに淋しい。若しまた今夜のうちに大雪でも来て、あとへ引返す事ができなくなつたらどうだらう」(「利根より吾妻へ」)などと心細さが身に浸み、3合の酒を飲み干すと「勇気を出してこの宿場を立つことを決心」し、再び谷川温泉へと道をとる。
 「午後三時、空は難有くなほ先刻のまゝに晴れてゐた。(略)見返れば清水越にはいつのまにか午後の光が宿つて積み渡した雪の上にはほのかな薄紫が漂うて居る。(略)一里あまりをばいま来た路を引返すのである。広く且つ深いその渓間に照り淀んで居る日光はいよいよ濃くいよいよ浄く、ただ渓の響のみがその間に澄み切つて醸し出されてゐる。(略)路傍の枯草に寝ころんだり、渓に降りて淵に遊ぶ魚を眺めたり、手帳に歌を書きつけたりしてゐる間に、暮れ速い冬の日脚はいつとなく黄昏近くなつて来た。」心細さをこらえながら「湯気を目あてに寒い山を降りて行つた。」(「利根より吾妻へ」) 

群馬県みなかみ町谷川 恋沢ガーデン展望台

建立日不明
                              若山牧水

     谷川と/名にこそ負へれ/この村に

     聞ゆるはただ/谷川ばかり

▼第13歌集『くろ土』大正七年ーーみなかみへーー谷川温泉は戸数十あまり、とある渓のゆきどまりに当る、浴客とても無ければその湯にて菜を洗へり。ーー
   菜をあらふと村のをみな子ことごとく寄り来てあらふ此処の温泉に
   あばら屋のおそろしければ提灯をともしてぞ入る夜半のいで湯に
   谷川と名にこそ負へれこの村に聞ゆるはただ谷川ばかり
                                            何かせむ何かもせむとゐつたちつあまりさびしくうちほほけたり
                                            二夜寝て去なむとしつつ渓ばたの雪の中の宿に名残の残る

 「この谷川村は初め越後あたりから出稼ぎに来てゐた人たちがいつとなく棲みついて部落をなしたもので、今では戸数が二十位ゐはあり、みな木挽と炭焼とを生業としてゐるのだ相だ。湯桧曽と同じく此処がこの渓の行きどまりの部落でこれから上には一軒の人家も無いといふ。(略)いまこの辺は漬菜の盛りと見え、私の泊つてゐる温泉の一つの湯槽をその菜洗ひ場所として村の女どもが其処に集つて終日青いその菜を洗つてゐた。温泉で、しかも浴槽で菜を洗ふなどとは到底二度とは見られぬ図だと感心しながら私も終日湯に入りづめにそれを見て暮した。」(「利根より吾妻へ」) 

群馬県高山村 権現峠

昭和44年(1969)12月7日除幕<55>
                                                    若山牧水
  利根の流域より名も知らぬ山を越えて吾妻川の峡谷に
     出づ、此處は雪なくてなほ黄葉殘りたり

       雜木山登りつむればうす日さし
        まろきいただき黄葉照るなり

       このあたり低まりつづく毛の國の
        むら山のうへに淺間山見ゆ

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 歌人若山牧水は大正七年十一月十八日利根郡よりこの峠を越えはじめて吾妻郡に入る ”雜木林”の歌は峠に憩いて詠み翌十九日判形のやま屋旅館を出立 尻高の石古根にてひときわ高き山を望み里の娘に山の名を問う 浅間山とわかり”このあたり”など詠めり
 昭和四十四年十一月十八日五十一年に満るを期し同志相い集いてこの地に歌碑を建立し記念とす      高山村若山牧水歌碑建設委員会
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▼第13歌集『くろ土』大正七年ーーみなかみへーー
利根の流域より名も知らぬ山を越えて吾妻川の峡谷に出づ、此処には雪なくてなほ黄葉残りたり。
     雑木山登りつむればうす日さしまろきいただき黄葉照るなり
     こまごまと雑木たちならびもみぢしてまろき峠の腹を掩へり
     とほ山はしろくかくろひわがいそぐ端山のはしに時雨かかれり
名久田川といふに沿ひて下れば遥けきかたに一きはすぐれて高き山見ゆ、里の娘に問へば浅間山なりといふ。」6首。
     おほよそにながめ来にしか名を問へば浅間とぞいふかのとほき嶺を
     浅間にしまことありけり雲とのみ見し白けぶり真すぐにぞ立つ
     このあたり低まりつづく毛の国のむら山のうへに浅間山見ゆ

 11月18日、谷川温泉から湯原まで戻り、湯原からは馬車で沼田へ。その馬車で一緒になった兄妹(脚に腫れ物ができ医師に切断を勧められている妹を、治療のため湯治に連れて行った戻りだという二人)と別れてさしかかったのが権現峠か。
 「沼田から次第高に高まつて来た高原はこの辺から縦に幾つかの丘陵となつて一つの山をなしてゐる。(略)田や畑の尽きたあたりから山は雑木の林となつて、少し遅いがまだ黄葉の深い色を湛へてゐた。峠の林の陰に長々と寝転んで疲れた身体を休めてゐる所へ、昼前から催してゐた時雨がたうとう降つて来た。」(「吾妻川」)

 歌碑脇に「歌人若山牧水ここに休む」の石柱も立つ。
 権現峠は沼田市と高山村の境にあり、ロードマップなどでは今井峠と記されることが多いという。               ページの先頭へ