碑の詩2

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山梨県身延町下部 源泉館別館神泉

昭和55年(1980)2月26日除幕<86>

     山越えて/入りし古驛の霧のおくに

    電燈の見ゆ/人の聲きこゆ

                      若山牧水

         明治四十三年六月(一九一〇)/二十六才
                     下部温泉源泉館に宿泊/その日詠める

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山越えて入りし の牧水歌碑を建てよう 石部尚君と話し合つたのは既に数年前であつた 若山旅人 大悟法利雄の承認を得た 今ここにそれが実現する 喜び限りなし          昭和五十四年秋     主催 石部  尚
                                                              文 熊王徳平   書  赤池東山
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▼第4歌集『路上』ーー六月中旬、甲州の山奥なる某温泉に遊ぶ、当時の歌二十二首。ーー
     雲まよふ山の麓のしづけさをしたひて旅に出でぬ水無月
     辻辻に山のせまりて甲斐のくに甲府の町は寂し夏の日
     山山のせまりしあひに流れたる河といふものの寂しくあるかな
     山越えて入りし古駅の霧のおくに電灯の見ゆ人の声きこゆ
     わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな

 明治43年(1910)は、1月に第2歌集『独り歌へる』出版、3月雑誌『創作』創刊、4月に第3歌集『別離』が発行されたばかりでなく、啄木の『一握の砂』、吉井勇『酒ほがひ』も刊行され、牧水にとっても近代短歌にとっても画期的な年であった。『創作』・『別離』は、牧水の名を一躍高からしめた。しかし、「油の断えた機械のような赤錆びた生命」「自由の利かぬ程身心が ー 重に心が、疲労してゐた」(5月8日付手紙)。『創作』の編集や短歌の通信添削等の忙しさもあったが、小枝子との関係が一層苦悩を深めていた。そんな折、『別離』の売れ行き好調でまとまった金が入ったため、6月中旬下部温泉に出かけたのであった。

 下部温泉には亡くなる直前の昭和3年(1928)に、足の痛みと食欲不振から衰弱が激しくなりしばらく滞在して静養するつもりで8月21日に出かけたが、湯治客で混雑していたため二泊して帰宅、これが最後の旅となった。
  

山梨県早川町赤沢

平成17年(2005)6月
             
     雨をもよほす/雲より落つる

      青き日ざし/山にさしゐて

      水恋鳥の声 
                          牧水詠
                             とみ子書
                         

いつもNAVI地図   http://www.its-mo.com/z-127421059-498150761-10.htm"


▼第15歌集『黒松』大正十三年ーー甲州七面山にてーー31首
     雨をもよほす雲より落つる青き日ざし山にさしゐて水恋鳥の声
     雨を呼ぶ嵐うづまける若葉の山に狂ほしきかも水恋鳥の声は
     呼びかはし鳴きみだれたる鳴声の水恋鳥を聞くは苦しき
     山襞のしげきこの山いづかたの襞に啼くらむ筒鳥聞ゆ
     ひとつものに寄り合ひ静もれるわれの心にひびきとほりて郭公聞ゆ
     
 大正13年(1924)6月16日、大悟法利雄とともに午前7時沼津駅を発って身延山久遠寺に詣で(当日はたまたま日蓮が入山して651年目にあたり、開闢大法会が行われていたという)、赤沢村に1泊。翌17日は霧の中を七面山に登り、奥の院の坊に宿泊する。18日はさらに身延山の奥の院に登り、その日の汽車で沼津に戻っている。

 その時の紀行文「身延七面山紀行」に「身延から七面山の頂上まで、ほゞ二十町おき位ゐにお寺とも茶店ともつかぬ建物が一軒づつ路端に続いてゐた。(略)路は既に渓間から山腹を出て尾根づたひの様な処を通つてゐた。折も折、朝からの重い曇が晴れかけて、雲はまだありながら空の何処かに明るみが宿つてゐた。漸く馴れて来た歩調に歩みは次第に速くなりながら、それと共に疲れも出て、多く足もとをのみ見詰めて歩いてゐた鼻先に、七面山遙拝所といふ札をかゝげた小さな茶店のあるのが眼についた。店は閉ぢてあつた。遙拝所の文字に気付いて面を挙ぐると、成程丁度路の曲り角に当つた其処のやゝ右手の方に形けはしい高山の聳えてゐるのが仰がれた。山の上あたり僅かに雲が切れて鋭い頂上一帯に夕日が青やかに落ちてゐた。(略)其処から路は急な下り坂となつてゐた。随分ときびしい坂である。ともすれば走り出しさうな足もとを踏みしめながら用心して降りてゐると思ひがけぬその眼下の麓に一かたまり人家の寄つてゐるところが見えて来た。二人とも急に言ひ合せた様に足に力を入れて立ち停つた。『あれですね、赤沢村は』『さうだ、確かにあれだ、とすると・・・』私は答へながら、友人を振り返つて笑ひ出した。『あれなら面白い、こいつは思ひがけぬ拾ひ物をした。あそこなら君確かに面白いよ』」とある。

 この歌碑は、その下り坂になって赤沢集落を見下ろす石畳道の出発点に立つ。同じ時期に集落下(大阪屋の向かい側)に「花ちさき」の歌碑も建立された。
 「大きさ鵯に似、全身真紅、火の色をした鳥だといふ」水恋鳥(アカショウビン)は、その前年、鳳来寺山で初めて聞いていたのだが、「丁度いま日の射して来たところ、夕日とはまた格別な若葉の山の朝日のなかで、切々として何の鳥か啼いてゐる。寂びて、而かも水々しい。『サテ、聞いた事のある鳥だが・・・』暫く考へても思ひ出せなかつた。」「坂路の両側に杉の並木があり、それを囲んで種々雑多な雑木の若葉があつた。掩ひかぶさる様な若葉である。その深い森の中で文字にも言葉にも移す事の出来ない微妙な音いろを持つた例の鳥が狂ほしげに啼き交してゐる。(略)蒸す様な若葉の色や匂の焦点をなすかのごとくによく徹つた声で啼いてゐる。」(「身延七面山紀行」)

山梨県早川町赤沢 大阪屋向側

平成17年(2005)6月
             
     花ちさき/山あぢさゐの

      濃き藍の/いろぞ澄みたり

      木の蔭に咲きて 
                          牧水詠
                            若山とみ子書
                         

▼第15歌集『黒松』大正十三年ーー甲州七面山にてーー31首
     立ち掩ふ木々の若葉の下かげにそよぎて咲ける山あぢさゐの花
     花ちさき山あぢさゐの濃き藍のいろぞ澄みたる木の蔭に咲きて
     幹ほそく伸びたちたればそよ風にそよぎやはらかき山あぢさゐの花

  「病みあがりの私には到底今日中に七面山まで登りつける勇気はなく、身延山と七面山との中間に在るといふ赤沢村に泊る事にきめてゐたのであつた。そしてその赤沢村といふのを、(略)極く平べつたい平凡な沢の中に在る事とのい思ひきめていた。ところがいまこの急坂の中途で発見した赤沢村は(略)平凡などころか、その急峻な垣の一部に位置して、更にその下に急坂あり、其処にかなりの渓を置いて真向うに先程から仰いで来た傾斜きびしい高山の一つと相対してゐるのである。村自身の位置も面白く、真向うの山を仰ぐに丁度恰好な場所に当つてゐる。ほんとに掘り出しものをした気持で、個数十戸ばかりのその村をさして元気よく坂を降りて行つた。/村は全部宿屋ばかりで出来てゐるらしかつた。我等は坂を降りながら、対岸の山を仰ぐに最も位置のいゝ宿屋を選ばうと路々評議して来て、とにかく一番取つ着きのゑびす屋といふにあがる事にした。」(「身延七面山紀行」)

 平成5年(1993)に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された赤沢地区は、東側の久遠寺と西側で修験道の霊場七面山を結ぶ身延往還と呼ばれる参詣道の中間に位置し、唯一の宿場町として栄えてきた。大阪屋・江戸屋を草分けとして最盛期には9軒の宿屋があったが、自動車道が整備されるなどして、現在営業しているのは江戸屋1軒という。    

山梨県早川町赤沢 江戸屋旅館

平成19年(2007)5月27日除幕

     朴の木と先に思ひし/近づきて

     霧走るなかに見る/橡若葉

                         牧水詠
                              とみ子書    
                 

▼第15歌集『黒松』大正十三年ーー甲州七面山にてーー31首
     朴の木と先におもひし近づきて霧走るなかに見る橡若葉
     山毛欅若葉橡の若葉のとりどりにそよぎ明るめりわが仰ぐうへに
     おのがじし光ふくみてそよぎゐる橡若葉なり山毛欅若葉なり
     さしかはす木々の瑞枝の中に垂りて長き藤蔓に小鳥こそをれ
 
     江戸屋       大阪屋

 ブログ「赤沢伝説よいしょっと=vによれば、牧水二男富士人夫人の若山とみ子氏が代表を務める「海峡」の全国大会(即詠会)が、除幕式翌日の28日に江戸屋旅館で行われたとのこと。

山梨県早川町赤沢 七面山 羽衣橋袂

昭和45年(1970)11月26日除幕<60>

                      若山牧水

     山襞の/しげきこの山/いづかたの

        襞に啼くらむ/筒鳥聞ゆ         
                         

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昭和四十五年十一月二十六日 多くの人たちの協力を得てこれを建てる
                                   早川町観光協会   早川町文化協会
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▼第15歌集『黒松』大正十三年ーー甲州七面山にてーー31首
     山襞のしげきこの山いづかたの襞に啼くらむ筒鳥聞ゆ
     声ありてさまよへるかもつづきあふ尾根の奥処の筒鳥の声
     筒鳥のほのけき声のたづきなく聞えくるかも次にまた次に
     とめがたき声なりながら聞えたる筒鳥の声は消すよしもなし
     まなかひの若葉のそよぎこまやかにそよぎやまなく筒鳥きこゆ

 「身延路から七面山へ越ゆるところに羽衣橋といふが高々とかかつてゐた。昨日渡つた身延橋も田舎に珍しい大仕掛けなものではあつたが、それは要するに鉄道会社のかけた営業用の大仕掛であつた。が、いま見るこの羽衣橋はそれとは打つて変つた神々しい、清楚な、堅牢なものである。(略)/橋にかゝらうとする左手に一つの滝がかゝつてゐた。白糸の滝といふ。高さ約十丈、正保年間徳川家康の側女お萬の方養珠院、三七日間この滝に浴して後七面山に登つたのを縁起として今でもこの滝に身を浄めてお山にかゝる人が多いといふ。(略)/橋から直ぐまた登りとなつた。」(「身延七面山紀行」)
 歌碑はその登山口あたりで詠まれた歌で、早川町の文化協会・観光協会が中心になって建立。揮毫したものがないので下原稿のペン字を拡大したものを使用したとのこと。
 「羽衣橋あたりまで晴れてゐた空はいつの間にか曇つて来た。路から見下す渓間にはいち速く霧が生れてともすると我等の側まで靡いて来る。自づと足も速められて行くのであつたが、或る時、私はフイと立ち停つた。そして不思議な顔して同じく立ち停つた友人に惶てゝ或る方角を指ざしながら私は早口に言つた。『君、ソレ、啼いてる、筒鳥が』(略)『ア、啼いてる啼いてる、確かに筒鳥だ、ソレ君、ポツポツ、ポツポツ、ポツポツポツポツと続けてるのがあるだらう、あれがそれだ。難有いな、これで楽しんで来た幾つかを果したわけだ。この上は郭公と仏法僧だぞ』嬉しくなって私がいふと、『あゝ、成る程、聞こえます、あれが筒鳥ですか』」(同前)

                                             

山梨県北杜市小淵沢町 生涯学習センターこぶちさわ

昭和24年(1949)11月13日除幕<11>

      甲斐の国/小ふちさは/あたりの

       高はらの/あきすゑつかたの

       雲のよろしさ          牧水       

▼『若山牧水全歌集』補遺 大正十二年
   甲斐の国小淵沢あたりの高原の秋末つ方の雲のよろしさ

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                             小淵沢高原          若山牧水歌碑
 若山牧水は、大正十二年十月三十日甲府から汽車で小淵沢に着き、いとや旅館に一泊、翌日徒歩にて小泉、大泉、清里を経て松原湖、小諸方面に向う途中八ヶ岳南麓の秋色を詠じられたのである。/昭和二十四年霜月十三日、小淵沢短歌愛好者の発起により、若山喜志子さん等招き除幕式を行なう。/「甲斐の国こふちさはあたりの高原の秋すゑつかたの雲のよろしさ」                               小淵沢町 
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 大正12年(1923)9月1日関東大震災。沼津住の牧水に直接的な被害はなかったが、印刷まで済んでいた紀行文集『みなかみ紀行』が焼失するなど、経済的な打撃は甚大だった。そんな牧水に信州からの誘いがあり、10月28日沼津を発ち河口湖畔で1泊、翌日は青木ヶ原の樹海を抜け精進湖畔に泊まり、30日小淵沢で中村柊花と落ち合う。以後信州に入り千曲川上流域などを巡って秩父に抜け、11月13日に帰宅したのが「木枯紀行」の旅であった。 ーーひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて別れきさなり今ぞ逢ひぬるーー
 ーー甲府駅から汽車、小淵沢駅下車、改札口を出やうとすると、これは早や、かねて打合せてあつた事ではあるが信州松代在から来た中村柊花君が宿屋の寝着を着て其処に立つてゐた。(略)/親しい友と久し振に、而かも斯うした旅先などで出逢つて飲む酒位ゐうまいものはあるまい。風呂桶の中からそれを楽しんでゐてサテ相対して盃を取つたのである。飲まぬ先から心は酔うてゐた。/一杯々々が漸く重なりかけてゐた所へ思ひがけぬ来客があつた。この宿に止宿してゐる小学校の先生二人、いま書いて下げた宿帳で我等が事を知り、御高説拝聴と出て来られたのである。/漸くこの二人をも酒の仲間に入れは入れたが要するに座は白けた。先生たちもそれを感じてかほどほどで引上げて行つた。ーー
 「木枯紀行」十月三十日の一節だが、その時「酒の仲間に入れた先生たち」に即興的に書き与えた短冊の一枚に記されたものという。
 「木枯紀行」の旅の歌は、第15歌集『黒松』に、「念場が原」10首、松原湖畔雑詠」27首、「佐久風物」13首、「野辺山が原」16首、「千曲川上流」25首の91首収められているが、小淵沢以前のものは入っていない。

 『牧水歌碑めぐり』によると、この歌碑は初め小淵沢西小学校(現在は廃校)の校庭に建てられたが、昭和52年(1977)に「宮久保の小渕沢町文化会館の庭に移された」とあるが、現在は「生涯学習センターこぶちさわ」となっている。

 さらに、平成元年(1989)11月、牧水歌碑の隣りに喜志子の歌碑も建立された。
 説明板によれば、平成元年(1989)11月にふるさと創生事業の一環として小淵沢町が建立したとのこと。「この歌は、夫牧水の歌碑除幕のため、昭和二十四年十一月十三日、喜志子夫人のご来駕をいただき除幕式を行った。その夜、駅前の旅館に泊り、次の夜、久保の進藤春木氏宅に泊り、奥座敷の一室で詠ったものである。/現在、自筆の掛軸として保存されており、それを歌碑としたものである。」 
はに鈴のほろろこほろぎ夜もすがら枕のしたのあたりにて啼く   喜志子 詠書

      

山梨県北杜市高根町 高根生涯学習センター

平成3年(1991)3月建立

       枯すすきに/からまつの葉/の散り積みて

       時雨にぬれし/色のさやけさ

                           牧水詠旅人書

▼第15歌集『黒松』大正十二年ーー念場が原 八が嶽の裾野を甲斐より信濃へ越えむとして念場が原といへるを過ぐ、方八里に及ぶ高原なりーー
   枯薄に落葉松の葉の散り積みて時雨にぬれし色のさやけさ
   落葉松の痩せてかぼそく白樺は冬枯れてただ真白かりけり
   甲斐より信濃へ越すと冬枯れの野をひと日来て此処に日暮れぬ
   野のなかのこのひとつ家に宿乞ふとわが立ち寄れば霧ぞなびける

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                                                                         若山牧水歌碑
 明治十八年八月二十四日宮崎県東臼杵郡東郷町に生まれ、早稲田大学を卒業する。大学時代尾上柴舟に師事する。日本の伝統的な漂泊歌人で、歌は豊かな情感と寂寥感があり、清澄流麗である。歌集に「くろ土」「山桜の歌」等がある。/生涯旅を好み念場ヶ原に来たのは「木枯紀行」の旅で、大正十二年十月三十一日であった。小淵沢から東井手・長沢を通り念場ヶ原で九首詠み、当地の旅籠屋に宿泊し翌日一首詠んでいる。当時の自然の光景が抒情的に表現されている。                平成三年三月吉日建之                      高根町
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 10月31日、「早々に小淵沢の宿を立つ。空は重い曇であつた。(略)/我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ヶ嶽の南麓に当る広大な原である。所々に部落があり、開墾地があり、雑草地があり林があつた。大小の石ころの間断なく其処らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。(略)路はこれからとろとろの登りとなつた。この路は昔(今でもであらうが)北信州と甲州とを繋ぐ唯一の道路であつたのだ。幅はやゝ広く、荒るゝがまゝに荒れはてた悪路であつた。 (略)
 恐れていた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が同じく野末をこめて来た。(略)まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一点の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶予もなくそれを引きあけて中に入つた。/入つて一杯元気をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる囲炉裡の火、竈の火を見てゐると、何とももう歩く元気は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。囲炉裡で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。」(「木枯紀行」)

 翌日、県境を越え松原湖畔の宿に落ち着き4日まで逗留する。ここではさらに4人の門人が加わり、新築の2階が揺れるほどの「凄じい木枯」が吹きつのる中、心ゆくまで飲みかつ語り合ったのであった。
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